1年以上かけて『果てしのない世界め』(少年アヤ)を読み終えた
この春に『果てしのない世界め』を読み終えた。やっと最後まで読めた。
アヤさんのことは雨宮まみさんきっかけで知った。ブログや連載を読んでいて、この本が出版された時に青山ブックセンターで開かれたトークイベントにも参加した。手元の本にはアヤさんが描いてくれた、私の名前とかわいらしい絵が入っている。
でも、最後まで読むのに1年と3ヶ月もかかってしまった。そしてこの文章を書くのにまた季節がふたつほど変わってしまった。
私は彼と同じ年に生まれた。同じく母方の祖父にすごく影響を受けて育っていて、で、同じく最近(もう数年経つけど私にとってはいまだに最近、だ)その祖父を亡くした。人生で初めて亡くした身近な身内だった。
妹がいて、母親とはなんとなくうまくいかなくて、いち読者がなんと厚かましいことか、と自分でも重々自覚しているけれど、勝手にとても親近感を抱いていた。
だからあまりにも痛くて途中でどうしても進めなくなってしまった。「果林」の章だった。
新しい連載が始まって、アヤさんの文章、やっぱり素敵だなぁ、と思ったら、本棚に放置してしまっていたこの本を自然と開いていた。
相変わらずすっごく痛かったけれど、読み終えられた。
***
私は祖父が大好きで、祖父も私が好きで、正直家族で一番理解しあえてたのは祖父だと思っている。
かっこつけなのか、臆病なのか、大事なことをあまり話そうとしない母で、まぁ本人も余裕がなかったのかもしれないけれど
少し前に実家に戻った時は少し小さくなったかな、くらいだったのに、気付いた時にはもう病院で(おいこれ足元にお迎えいるでしょ)って状態になっていた。
そのうち意思疎通もままならなくなって、発作が出ると看護師さんを呼んで、壁に備え付けられてるチューブを口に突っ込まれてなんとか気道を開けていた。
なんてもの見せられてんだ、と思った。
こんなにあからさまに死に向かっているところを、祖母と母はずっとふたりで見てきてたのか、と、正直引いた。
なんでもっと早く言ってくれなかったんだろう。
でも多分彼女なりに伝えていた。食べ物の好みが変わったとか、和室に置けるベッドを探してるとか。些細な出来事だと聞き流していた色々が、多分サインだった。
部署が変わって仕事も増えて、"東京で働く自分"の像になんとか追い付こうとしていた当時の私に、田舎の母親がふわふわした口調で話す「和室に置けてある程度高さを上下できて軽いベッドはどれがいいか」は、正直、勝手にやってくれよ、としか思えなかった。
床に敷いた布団からは自力で起き上がれなくなっている、という背景には全然考えが及ばなかった。
で、気付いたら末期病棟である。
初めてその階に入ったときの、あの匂いはたぶん一生忘れない。
見に行くたびに前回とは別人のようになっていて、どんどん自分が知ってる祖父の顔じゃなくなっていっていた。
あー死ぬんだなぁと思った。
人間ってこんなふうに死んでいくのか、いやだなぁ
最初に告知された時にも同席していたし、
それなりに段階を追ってきていたから、事実として受け入れる心積もりはできている方だと思っていた。
ぽっくりいかれても実感が湧かないのかもしれないけれど、
じわじわ逝かれるのもそれはそれで境目が曖昧になる。
昼くらいから、いつどうなってもおかしくないので備えてください、と言われて
そこから結局半日くらい、待つだけの時間になった。
購買で買ったカップ麺を啜りながら、こんな"待ち"あるかよ、と思っていた。
いよいよその時が来て、あのドラマで見る「ピーーーー」ってやつになって、一瞬ピクっと波が動いたものの「これは筋肉の電気信号の名残なので」とか言われて、
その後はまぁあの「ピーーーーーー」ってやつに戻ったので医師が「はいここまで」と言って、そしたら終わり。
「ピーーーー」ってなった後も、「ピーーーー」ってなる前も、大して変わらないように見えた。
でも終わった。らしい。
深夜だった。日付が変わって、私の誕生日だった。
***
話が逸れたけれど、大切な人を亡くすことをきっかけに
自分自身の、そして家族それぞれの
それまで見えなかった、見られなかった面をすごく考えるようになった。
これは今も続いているんだけど、それは別として。
この行為ってものすごくカロリーを使うし、出口もなさそうだし
でもいつかは自分の言葉で、当時の記憶や思っていたことを記しておかなきゃ、となんとなく思っていた。
だから、これを書けてよかったと今は思っています。
なんともまとまりがなく、全然本の感想ではないのですが
これを書けたのはこの本を読み切れたおかげです。
『果てしのない世界め』は今の私にとっては、触媒みたいなもので
直接は向き合いたくなかったいろんなことの少し先にアヤさんがいて
彼のぼろぼろの、でも優しい背中がそこに見えるから、痛みを怖がらないでもう一歩踏み込もうと思える、そんな感覚だった。
一口に共感した、というのはあまりにおこがましいけれど
同じ時に、同じ東京のどこかで、この本を書いたアヤさんが今日も生きていると思うことだけで
私は勇気付けられている。
少年アヤさん、本当に、ありがとう。
さっき新刊を手に入れた。
連載も追いかけていたけれど、質量を持った言葉に、きっとまたズタズタになりながら読むんだ。すごく楽しみだ。
興味本位で覗いたゲイストリップで今を生きる力みたいなものを見た
※初めてメンズストリップの世界に触れた頭でっかちな女おたくのいち感想です。レポは素敵な絵の描かれる方々を見てもらう方がいいと思います…すみません。大島さんがRTとかしてます。
Twitterで見かけたレポ漫画をきっかけに、大島薫さん好きな連れと阿佐ヶ谷Loft-Aへ。
ストリップといえば歌舞伎町や円山町の周りの「ご開帳~」のイメージだったので、年確なかったけど大丈夫か……と思っていたら
想像以上に健全な方向で、ただ脱ぐ、絡むじゃないプロの表現の舞台だった。
ただえろいの想像してた浅はかな自分に反省した。
とはいえ最終的にほぼ下着姿だし濃いめに絡む。ポロリはない。
演目の話
物語性のある演目、それぞれの個性を生かした役を演じるダンサーさん。
理由のある脱ぎや絡み、関係性を前提とした演目は(あ~ふじょしがすきなやつ~~)と文字通り手を合わせました。
この日は1人演目がなく、2人(もしくは4人)だったのもある。(なお一組はリアルカップルとのこと)
見せるための綺麗な身体と美しい動き。
演者さんの話
二千戦錬磨の超美形エースカミュさんと
そのリアル彼氏の色白モデル系新人 ウリさんと
カミュさんとステージを共にして8年目の手練れの先輩 朱雀さんの構図、あまりに漫画とかで見たことあるやつだった。えっ現実?現実なの?
大島さんがまたそれをそれを上手に引き立てること…全員が全員"わかってる"空間の気持ちよさよ。
個人的には朱雀さんのプロっぷりがすごく素敵だなと思いました。腐作品の登場人物をあまりにも再現していて(このキャラどこかで読んだことある…な…?)みたいな気にすらなる徹底加減が、演者としてすごく魅力的だなと思った、
あまりこうやって真面目に語るようなもんでもないと思うので営業妨害になったら申し訳ないんですが…
余談ですがあれから朱雀さんの既視感ってなんだろうって考えてて、あー○げれつたなか先生の世界線だ!と思った……伝われ(まずかったら消す)
チップタイムの話
これはちょっとキャパオーバーなのでもうほんと体験して確かめてください……言葉に……できない……しては…いけない……
さて。
BL自体も含め色々な物事もそうだけれど、ジャンルに括られることのいろんな不自由さがあるなかで
そこを軽々と超えて「だから何?」ってその時を楽しんだり、その枠をわざと利用したり、そんな強かさが眩しくて
浅はかな興味とたっぷりの煩悩を携えて行ったはずのメンズストリップでまさかこんな現代をどう生きる、みたいなことを考えることになるとは思いませんでした。
普段はメンズダンスと銘打っている皆さんがあえて「ゲイストリップ」なんてあからさまな言葉を利用してるのも象徴的なのかもしれません。
半裸の美しい男性とそれを笑顔で見つめる女性たちの"わかってる"者同士の楽園がそこにあった。
あっあとみなさんすごくいいにおいでした
自己肯定感が低くて自己愛が強い状態を持て余している
自己肯定感が低くて自己愛が強い状態を持て余している。自覚はあって、どうすればいいか分からなくて、水槽の中の生き物を見るように、観察する時間がここ数年続いている。
「もっと自信を持って」とか「自分を大切に」とか言われるたびに(20代前半は本当にめちゃくちゃよく言われていた)、なんとなくしっくりこない感じがあって、自己肯定と自信とか自己愛ってもしかして別のものなのかも、と思い始めた。
それで最近やっと「自己肯定感が低くて自己愛が強い」状態なんじゃないかということはなんとなく掴めて、少し気が楽になったんだけど、扱いかたはまだよく分かっていない。
ちなみに自分を好きにならないと他人を好きになれないよ〜とかなんとか言いますが、好きになるならないとかでなく「私が否定する私を好きなあなたとは意見合わないですね」ということなんじゃないかなと思います。
私は自分を大嫌いなんだとずっと思っていた。
だけど、自分嫌いにしては褒められたいし、美味しいもの食べたいし、貶されたら不愉快だし、蔑ろにされたくない。不快や攻撃を避けたい。心地よい場所で甘やかされたい。大切にされたい。すごく。
自分が大事で、自分がかわいい。
でも自己否定が癖なので、自分が大切にされる価値がある人間だとは到底思えない。
ここで「私が否定する私を好きなあなたとは意見合わないですね」が発動するわけです。地産地消〜
逆に自分を否定してくる何かに「おお、趣味合うね」となるかと言われればそうではなく、普通に凹むし。
幸せだな楽しいなという状態になると(お前にその資格あんのか)と石を投げる自分が常にいるので、自分が幸せでいて欲しいのかどうかも分からず行ったり来たりしていて、
自信や自己愛がいくら高くても自己肯定感を補うことにはならないらしい。
アイドルとか、表舞台に立たれる方々を見ていると、自分なりの自己愛の扱いかたを見つけているんだなぁと感じる人が多くて、そういう人は魅力的に映る。
自分好きだなー!と笑っていたのは、本当はずっと羨ましさだったのかもしれない。妬みと言ってもいい。今は憧れ。
あと自分嫌いの方がなんかカッコいいと思っていたんでしょう。恥ずかしいですが、まあそんな時期もある。
サブカル(笑)みたいな空気感ももう終わった感がありますし、
ぱんぱんに腫れ上がって抱えきれなくなった自己愛とどう付き合うかは、たくさんたくさん恥をかきながら学んでいきたいと思います。今日はその一歩。